最期の言葉が思い出せない・・・

最期の言葉が思い出せない・・・

sayamama (2016-3-6 21:56 )
ある男の子を亡くされたお母さんが、「うちの子の最期の言葉は『しまった!』だったわ。うちの子らしくて後から思い出して笑えちゃった」と泣き笑いしながら話してくれました。それで数日前から、「そういえば、娘の最期の言葉はなんだったんだろう」と必死で考えているのですが、どうしても思い出せません。夫にも聞いたのですが、「覚えてない」って。

その日の午後、私の友人が送って来てくれた、娘の大好きなディズニーランドとシーの、ショーのDVDを「見る」と言って、ベッドで横になってじっと見てました。その後私が「ほかのも見る?」と聞いたら、「もういい」と言ったのは覚えているんです。もうその頃は、ただ1日横になっているだけで、それでもとてもしんどそうで、あまり話さなくはなっていたのですが、その後、容態が急変した7時前まで、2,3時間はあったはずなのに、その間、最後に娘が何を言ったのか、どうしても思い出せなくて、悲しいです。

娘の今わの際の言葉さえ覚えてないなんて、なんてひどい母親なんだろう。

マサコ (2016-3-7 9:07 )
sayamamaさん、私も思い出せません。
今、泣きながら書いています。
必死に思い出そうとしました、だけど病気が脳腫瘍だったので最後の方は意識もありませんでした。
それでもまだ話せる頃最後に話したことを思い出せません。
あの頃は周りが諦めていたころそれでも私は絶対大丈夫、奇跡はおこるこの子は助かるって信じていました。
明日も明後日もずっとそばで話せるって思っていたから…。
大事な言葉なのに思い出せないって今となっては取り返しがつかないほどの哀しみです。
だけど、こんな苦しみを大事な可愛い娘にさせなくて良かったですね。
息をするのも辛いほど苦しい毎日を歩かせるなんて可哀想すぎますね。
もう子供には苦しい思いはさせたくないですね。
我慢は母親の専売特許なんですねいつまでも。
なつママ (2016-3-7 15:52 )
来月で娘と会えなくなって1年になります。
娘も脳腫瘍でした。だから残り二ヶ月ぐらいは会話が難しかった…
表情や気持ちまでも奪ってしまう病気が憎かった…
今も悔しく、何故病気になってしまったのか答えが見つからず、この気持ちをどこへぶつけていいのか…
会話、温もり、笑顔ずっと覚えていたいですね。

今週末慰霊祭に参加します。
やはり現実なんだ…と。

かあちゃん (2016-3-7 16:45 )
皆さんこんにちは
最期、思い返すと涙が止まらないですね。
耳を必死に研ぎ澄まして、息子の声、言葉思い返してます。
チョコ (2016-3-8 9:30 )
なつママさん、私も同じです。
娘は胃がんでしたが、転移がんが
先に見つかり、手遅れでした。
薬の影響で、意識がもうろうとして
いたときもありましたが、前日まで
会話はできました。

話したこと、約束したこと、兄弟への
遺言など、思い出すと胸が張り裂けそうです。
どうして、娘だったのか?訳が分かりません。
何事にも前向きで、かっこいい娘でした。

実は私も今週末に、病院で執り行われる慰霊祭
に参加します。自分の中で心の整理をするきっかけ
になるかもしれないと思いました。
と、同時に現実を受け止めることも辛いです。

お互いに頑張りましょう。

なつママ (2016-3-8 11:16 )
皆さん、いつもありがとうございます。
ここに来て共感したり、吐き出したり、泣いたりして支えられています。
母親じゃなければ、わからないこの思い…

チョコさん、もしかして同じ病院かもしれないですね…
子供達の供養とは辛すぎますね。

チョコ (2016-3-9 10:16 )
そうですね。富士山がよく見える病院です。
お会い出来たらいいですね。

心の整理やけじめなど、つけられないです。
が、娘の魂を慰めること、言葉通りの慰霊
をしたいです。

このサイトでであった皆様に助けられ、サイトを
立ち上げて下さったはなさんにお礼が言いたいです。
ありがとうございます。
これからも宜しくお願い致します。

なつママ (2016-3-9 22:22 )
チョコさん、会えるといいですね。
同じ場所にいると思うと心強いです。
かーりー (2016-3-11 10:15 )
脳腫瘍で亡くなった場合意識が無くなることが多いので最期の言葉はなかなか思い出せないものなのですね。
実は私も息子と交わした最後の会話がなんだったのだろうと考えていて、それが思い出せないことが歯痒くて悲しかったのです。
息子は完全に眠ってから4か月ほど傍にいてくれました。
もう目を覚ますことがないのだと薄々わかっていながら、ほんの少しの反応めいたものにすがっていました。
それでもいてくれただけで良かったんです。
すぐそこにいていつでも触ることができたから。

夕べ眠っていて足首のところにトン、と何かが乗っかった感覚があり目が覚めました。
こんなことは初めてなのですが、もしかしたら私に会いに来てくれたんじゃないかと思いました。
姿を見せてくれたらもっと嬉しいのだけれど…。

sayamama (2016-3-12 20:42 )
私以外にも、なかなかわが子との最後の会話、が思い出せずに苦しんでらっしゃる方がいるのですね。
そうですよね、その時は、それが最後になるなんて思わなかったんですものね。

私も医師に「あと1ヶ月もたない」と余命宣告されても、娘がだんだん弱って行くのを目の当たりにしても、絶対奇跡が起こる、今までだって何度も医師の予想を裏切って、回復してくれた娘だから、と信じていました。信じていなければ私自身が正気でいられなかったんだと思います。

実際、医師が驚いたのですが、ものすごく悪くなっていた腎臓と肝臓の数値が、少しずつよくなってきたので、余計に絶対よくなる、と信じ、容態が急変して高熱が出ても、酸素マスクにすがりついて、まばたきもせず苦しむ娘のおなかを片手でなでさすり、もう片手でモルヒネのボタンを押しながら、娘の耳元に「早くよくなって、こんな病院退院しようね」「やっぱり愛知のもとの病院に戻ろう」「ディズニーランドの30周年パレード見に行こう」と、ささやき続けました。娘は返事しなかったけど、聞こえていると信じて。

あとから、多分途中から娘の意識は混濁していたことを、医師から聞きました。そして私が気づかない間に、ついには意識を失って、次には心臓が停止しました。

今でも覚えています。苦しそうな息遣いがだんだんマシになってきて、高熱も下がってきて微熱になったので、てっきりよくなったんだ、と私が安心したとたん、サチュレーションの数値が、いきなり90台から0になって、ナースステーションでモニターを見ていた医師や看護婦が何人も病室にかけつけて、娘の名前を大声で呼びながら(当然娘は無反応)、懸命に処置を施し出しました。

私は処置の邪魔になると思い、部屋から出て夫に連絡しました。すぐ夫と息子がかけつけて、部屋の外で待っていると、医師が出てきて、心拍が戻ったものの、自発呼吸ができない状態で、人工呼吸器をつけるかどうか決めてくれ、と言われました。

私はできる限りの手を尽くして欲しいと思いましたが、夫はもうこれ以上苦しませるのは可哀そうだ、もう諦めてやろうと言っていたところに、医師から再び心停止したので、今から心臓マッサージをするから、家族も部屋に入って娘に声をかけてくれ、と言われてみんなで部屋に入りました。

その後家族3人で泣きながら娘の名前を呼び続け、医師は交代しながら、アンビューで酸素を送りつつ、1時間心臓マッサージをしたのですが、結局娘は戻ってきてはくれませんでした。

今思うことは、最後の言葉が思い出せないこともさることながら、あの子が本当に逝った時はいつだったのだろう、その時私がそばにいてやらなかったんじゃないか、一人で逝かせてしまったのではないか、という後悔です。

死亡時刻は、心臓マッサージしても蘇生しない、これ以上続けても無駄だ、と医師が判断した時間だったので、それが本当にあの子が逝った時間なのか、本当はもっと早くに逝っていて、その時は、医師と看護婦だけしか部屋にいなかった時間だったのじゃないか(私が夫に連絡するため部屋を出た後再度心停止した瞬間)、だったらあの子は家族にも見送ってもらえず、一人寂しく逝ったんじゃないか、もしそうならあまりにあの子が可哀そうで・・・。
ずっとそばにいると娘に約束したのに、肝心な時にいてやらなかったのではないかと悔やまれます。

かあちゃん (2016-3-13 0:20 )
sayamamaさんの娘さん可哀相な子供では絶対ありません。
力いっぱいいっぱい生き、愛し愛された幸せな娘さんです。
人ぼっちなんかでわないです。
幸せいっぱいな子です。
逢いたいですね、さわりたいです、声聞きたいですね、抱きしめたいです
優しい愛を送ってあげないと、我が子が悲しむって思うけど
どうしたらいいか、苦しい
チョコ (2016-3-13 12:20 )
Sayamamaさん、自分のお腹を痛めて産んだ我が子の最後を看取る…世の中にこんなに残酷なことはありませんね。
最後の瞬間は分からなかったかもしれないけど、ご家族の大きな愛の中、旅立った娘さん、きっと有難うって言っているはずです。

私も娘の最後を思うとき、涙が止まりません。
1度は大きな山をこし、母の日には自分の財布から2,000-円を出して、好きなもの買ってね!って言ってくれました。最後の最高のプレゼントでした。それから約2週間後、旅立ちました。6月には26歳になるはずでした。

亡くなるなんて思ってないから、最後の言葉はナンだったかあまり覚えてないのですが、前日の夜は不安という言葉を言ってました。そして、病院での生活も、もういいかな、大変だから。家に帰って部屋の整理をしたいとも言ってました。感じるものがあったのでしょう。
最後は、呼吸が苦しく大きな息を3回位して、涙を流して息を引き取りました。
涙は、お母さんありがとうって言ってくれたんだと思います。

sayamamaさん、かあちゃんさんが言ってくださっている通り、娘たちは家族に感謝して、今は病気もなく元気になって私たちのこと見守っていてくれるはずです。
だって、あんなに愛した我が子だから。

昨日、慰霊祭行って来ました。半年で約500人の人が亡くなっています。そのうち、若い人が何人いるかは分かりませんけど。がん撲滅のため研究が進み多くの命が奪われないように祈りたいです。
子供を病気で亡くす人が一人でも減るように。

なつママ (2016-3-13 21:35 )
最期を思うと、苦しいですね…
辛い闘病をさせてしまい、でも治してあげることも出来ず、我が子を守れなかった…
悔しく、自分を責めてばかりです。

昨日、私も慰霊祭行ってきました。
始めから泣きっぱなしで、娘の名前を呼ばれてしまい、なんとも言えない気持ちでした。年配の方っぽい名前ばかりの中、若年者はほんの一握り…
会場は8年前、小学校の就学前健診の会場でした。当時を思い出し、なぜ今慰霊祭⁇
あの頃はすごく元気娘だったに…
昨夜は最期の時の夢を繰り返し見ました。
たぶん慰霊祭の影響だと思います。

この悪夢から早く抜け出したい…

sayamama (2016-3-15 23:33 )
かあちゃんさん、一人ぼっちなんかじゃない、幸せな子だって言って下さってありがとうございます。私はあの子を全身全霊で愛してました。あの子のためだったらなんでもしたのに・・・・。もう会えない。

チョコさんもありがとうございます。きっと私たち家族の愛情を、ちゃんと感じて旅立っていきましたよね。なんかそう思えるようになりました。
チョコさんの娘さんも母親思いの、優しい娘さんだったのですね。入院中なのに、母の日を忘れずに、自分のお財布からお金を出して「好きなもの買って」って、涙が出ますね。

私の娘も、母の日は毎年必ず何かプレゼントしてくれました。でもあの子は母の日の10日前に逝ってしまったので、その年の母の日はもう本当に悲しくて悲しくて泣いていたのですが、ふと思いついて娘が好きだった歌い手さんのCDをかけてみました。そのCDは娘が入院する前に予約していて、入院中発売になったので私が取りに行ったのですが、「病院では聞きたくない、退院してから家で聞くから」と言って、結局聞かずじまいで逝きました。せめてもと思い、葬儀の時にかけたのですが、その時の私はもう、音楽も歌詞も頭に入って来ない精神状態でした。だからじっくり聞いたのは、その母の日が初めてだったのですが、CDの最後の曲が「MOTHER」という、お母さんへの感謝の歌だったんです。それを聞いて娘の遺骨の前で号泣しました。あの曲が、娘が天国から贈ってくれた、最後の最高のプレゼントだと思ってます。

「96猫 MOTHER」で検索すると聞くことができますので、もしよかったら聞いてみてください。

なつママさん、未就学児検診の時の会場が、慰霊祭の会場になるなんて、悲しすぎますね。その時はまさか将来そんな事になるなんて思わなかったのに・・・。突然降ってわいた災難。昔の幸せな時間に戻れるものなら、戻りたいですね。

じゅぴたー (2016-3-26 8:04 )
sayamamaさん

最期の時、
思い出すのも辛いけれど、思い出せない時間もたくさんあります。
だって、その時、私達親は必死だったと思います。

何かしてほしいんじゃないか?
何か?と、
娘が旅立つ前日は、薬で眠らされているにも関わらず、
痛み苦しむ娘の姿に、痛みを苦しみを除いてほしいと、
先生や看護師さんに必死で訴えていた自分しか思い出せないのです。

ただ、その痛みの果てに、
眠らされている娘が夢うつつで口にした、
たぶん最期の言葉は、
「もうダメです。」でした。

意識があるうちは、
一度も我が身に急に降りかかった病気への不満も、
弱音も、諦めも口にも態度にも出さなかった我慢強い娘が、
意識の薄れていくなかで吐いた言葉…。
思い出すと辛いです。

ただ、旅立つ当日は、痛みからも解放されたのか、
親友が遠方から帰省して、手を握って声をかけてくれると、
本当に穏やかになり、
そして最期、私が振り向いて娘の顔を見た時に、
呼吸がゆっくり遠ざかって、眠ったまま逝きました。
ちゃんと母親にお別れさせてくれました。

もう言葉は出ない娘だけれど、
きっと色んなありがとうを私に伝えてくれようとしたのだと
思います。

娘に確認はできないけど、
そう思ってやることが良いのかなと。

sayamamaさん、
お子さんからの言葉ではないメッセージ、
きっとたくさんあるでしょうね。

思い出すと辛いことが多すぎるけど、
少しでも多くの素敵な時間を思い出せるように、
一緒に頑張りましょう。

sayamama (2016-3-28 23:56 )

じゅぴたーさん、そうですね、最後の時、私たちは必死でしたよね。
私もモルヒネも効かず、眠る事もできない娘の苦しみを、何とかしてくれと、医者に頼む毎日でした。トイレや買い物を口実に病室を抜けては、暗い廊下の片隅で泣いていた毎日でした。

それでも娘はたくさんの言葉を残してくれました。
たくさんの幸せを私に与えてくれました。たくさんの思い出を残してくれました。きっとあの子は、まわりの人たちを幸せにするために生まれてきたのだと思います。その代りに、自分は辛くて長い闘病生活を送ることになって・・・。

あの子のように、私もまわりの人を幸せにできるような人間にならなくては、と思いつつも、なかなか実行できません。娘がいなくなって腑抜けになってしまって、毎日生きていくので精いっぱいで・・・。
いつかあの子から受けた幸せを、人に返せるようになりたいと思います。

お返事ありがとうございました。

じゅぴたー (2016-3-29 22:50 )
sayamama さんへ

お辛い気持ちをお話しくださってありがとうございます。

病室を出るときに、口実を作って…とありましたが、
本当にそうでした。

元気なときは、どちらかと言うとしっかり者で自立心のある娘は、母の私に甘えたりがほとんどなく育ちました。
けれど、二度目の手術の後からは、私が病室を空けるのを心配そうな顔をするようになり、
私ももう長くは一緒にいられないとの思いから、まったく家にも帰らず、自分の入浴も洗濯も病院でしていました。
家のことはすっかり主人に任せました。
娘の可愛がっていた愛犬の世話も。

ですが、先生の回診のあとなど、お話を聞く時や、
また、娘が、無邪気に退院したら話をしたときなど、
込み上げて押さえきれなくなった時に、
それを押さえて「あっ!洗濯回してた。」などと言って、
病室を出ると走って、エレベーターの影などに隠れて一人泣き崩れていました。

その記憶は本当に辛いです。
それも消えない記憶です。

病気がわかってから、すぐに続けて二度も手術をして、体の機能を一変に失って、
立って歩くことは愚か、食べることも、排泄も、入浴も何もかもできなくなり、
ただの一度も家に帰ることも出来なかった娘は何がなんだか分からないうちに、命の光も奪われてしまいました。

今、自分の状況を理解して、天国にちゃんと向かっているのかなと心配になったりもします。

けれど、そのような辛い時間を長らく送られたsayamama さんのお気持ちは、察するに余りあります。
娘さんご本人もご家族も本当に頑張られましたね。

娘たちの優しさ強さ、そしてあんなに辛い闘病生活を本当に頑張った娘のために、一緒に頑張って進みましょう。

とは言え、その決意とは裏腹に、
本当に体の真ん中に力が入らないのが現実です。

ただただ、私のところに生まれてきてくれたことにありがとうを胸を張って言えるようにしたいとの思いだけで踏ん張ってます。

sayamama (2016-3-30 20:27 )
じゅぴたーさん、本当に娘には「私のところに生まれて来てくれてありがとう」と感謝の気持ちでいっぱいです。
実の母に、娘が亡くなってすぐ「親より先に死ぬのは一番の親不孝」と言われ、実の母ながらすごく憎く思いました。娘は死にたくて死んだわけじゃないのに、娘は親不孝なんかじゃない、わたしなんかよりもずっとずっと親孝行娘だった、と思ってます。

そんなわだかまりもあってか、今入院している母に心の底から優しくしてあげられない自分がいます。

カテゴリー: 分かち合い

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